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【2025/04/24 17:23 】 |
中曽根
その一方で1982年に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していたアルゼンチンの親米軍事政権がフォークランド紛争を引き起こした時はイギリスに全面的に協力し、さらに1983年にレーガンは、カリブ海の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した(グレナダ侵攻)。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダのニュー・ジュエル運動による人民革命政府を崩壊させようとプエルトリコのビエケス島で軍事演習を繰り返していた。
レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。
またレーガンは、1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。
こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国はコンタドーラ・グループを結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力したコスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領にはノーベル平和賞が授与された。
その任期の終盤には、自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦の終結により共産主義の浸透の心配がなくなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中にチリやエル・サルバドルやグアテマラでは、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことはなかった。
イラン・コントラ事件 [編集]
その様な中で、イラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアのサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダルおよび調査があった。国家安全保障担当補佐官ジョン・ポインデクスターおよび国家安全保障会議軍政部次長オリバー・ノース中佐が、イラン政府に武器を売却し、その代金を第二次ニカラグア内戦を戦っていた、アメリカが組織した旧ソモサ王朝派の反共産主義傭兵軍コントラに対する支援に流用するための精巧な計画を企てた。
この二つの行為は明らかに法律に反しており、レーガンは計画を知らなかったことを公言したが、武器の売却が、レバノンでイランが支持するテロリスト・グループ、ヒズボラによって人質にとられているアメリカ人の釈放を安全に行うことを支援することになっていたという理由で、イランへの武器の売却を支援したと認めた。
大統領が武器販売を関知せず、自らのスタッフに対するコントロールが不十分だった点でのみスキャンダルに対して罪があったとされた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものであったが、その政治生命に対するダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。
レバノン平和維持軍 [編集]
1982年より、レバノン内戦に対して、平和維持軍としてアメリカ海兵隊をレバノンに派遣した。海兵隊は、何度か攻撃を受け、1983年10月23日には、兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員が死亡した。そのため、3ヶ月後にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。
各国首脳との関係 [編集]


ウィリアムズバーグ・サミット(1983年)


中曾根康弘の私邸にて昼食をともに(1983年)
レーガンは各国の首脳と軒並み友好関係を持ったが、なかでも西側諸国の保守派の指導者とは親密な関係を保った。イギリスのマーガレット・サッチャー、カナダのブライアン・マルルーニー、イタリアのアミントレ・ファンファーニ、日本の中曾根康弘などとは特に「仲良し」なことを公言してはばからず、大統領の「公式プライベート空間」であるキャンプ・デービッドや、レーガン個人がカリフォルニア州に所有する牧場に彼らを招いてもてなしたりもした。
こうした同盟国の首脳とお互いにファーストネームの短縮型で呼び合うことを提案して外交プロトコルに革命をもたらしたのも、気さくなレーガンならではのことだった。レーガンと中曾根もお互いに「ロン」「ヤス」と呼び合い、これが先例となって今日まで日米首脳の多くはこの「ファーストネーム ベース」で呼び合うことを踏襲している。
日本との関係 [編集]
1960年代以降の日本は世界有数の経済大国の1つであると同時に、1980年代後半頃まではアジアで唯一安定した民主主義政治が確立された国家でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営と社会主義陣営の二極化が進むと、アジア太平洋地域において、超大国ソ連の喉元に刺さった小骨のような日本の戦略的な重要性はますます高まった。レーガン政権が日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。
レーガンの軍拡路線は、日米関係にも影響を与えた。アメリカは極東アジアの軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の三沢基地にF-16飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸・海・空・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開。
特に同年代の中曾根首相との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景から、レーガンは現職のアメリカ大統領としては最多の三度にわたり日本を公式訪問している[11]。
最初の訪日では昭和天皇や中曾根総理と会談したほか、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曾根が、11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった[12]。 日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮で流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。
1983年9月に発生した大韓航空機撃墜事件など、冷戦下の北東アジアで発生したいくつかの事件では日本と共同歩調を取ったが、日本との貿易摩擦に対しては一貫して強硬な姿勢をとり続けた。
健康 [編集]
1985年夏、レーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年の合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うこと決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ブッシュ副大統領がこの間約8時間にわたって大統領権限を代行している。
1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。
しかしその後は、耳が遠くなる[13]、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象にこそ見舞われたものの、レーガンの健康状態は至って良好だった。1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈るほどだった。
内閣 [編集]
職名 氏名 任期
大統領 ロナルド・レーガン 1981 - 1989
副大統領 ジョージ・H・W・ブッシュ 1981 - 1989
国務長官 アレクサンダー・ヘイグ 1981 - 1982
ジョージ・シュルツ 1982 - 1989
財務長官 ドナルド・リーガン 1981 - 1985
ジェームズ・ベイカー 1985 - 1988
ニコラス・ブレイディ 1988 - 1989
国防長官 キャスパー・ワインバーガー 1981 - 1987
フランク・カールッチ 1987 - 1989
司法長官 ウィリアム・スミス 1981 - 1985
エドウィン・ミース 1985 - 1988
リチャード・ソーンバーグ 1988 - 1989
内務長官 ジェームズ・ワット 1981 - 1983
ウィリアム・クラーク 1983 - 1985
ドナルド・ホーデル 1985 - 1989
商務長官 マルコム・バルドリッジ 1981 - 1987
C・ウィリアム・ヴェリティ 1987 - 1989
労働長官 レイモンド・ドノヴァン 1981 - 1985
ウィリアム・ブロック 1985 - 1987
アン・マクラフリン 1987 - 1989
農務長官 ジョン・ラスリング・ブロック 1981 - 1986
リチャード・エドモンド・リング 1986 - 1989
保健福祉長官 リチャード・シュウェイカー 1981 - 1983
マーガレット・ヘッケラー 1983 - 1985
オーティス・ボーウェン 1985 - 1989
教育長官 テレル・ハワード・ベル 1981 - 1984
ウィリアム・ジョン・ベネット 1985 - 1988
ラウロ・カヴァゾス 1988 - 1989
住宅都市開発長官 サミュエル・ピアース 1981 - 1989
運輸長官 ドリュー・ルイス 1981 - 1982
エリザベス・ドール 1983 - 1987
ジェームズ・バーンリー 1987 - 1989
エネルギー長官 ジェームズ・エドワーズ 1981 - 1982
ドナルド・ホーデル 1982 - 1985
ジョン・ヘリントン 1985 - 1989


レーガンと最初の閣僚(1981年2月4日)


レーガンと最後の閣僚(1989年1月11日)

引退 [編集]



ホワイトハウスを去るレーガン
1989年に2期8年の任期を全うしたレーガンは、高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。同年来日して東京ドームでの1989年の日本シリーズ第3戦で始球式。
なお、レーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章GBEを受けナイトの称号を許されたが、「合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」を冠することは一度もなかった。
アルツハイマー病 [編集]
レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1992年、アルツハイマー病と診断された。病は年を追う毎に進行し、彼は人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。妻は自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。1994年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。
レーガンの最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. (私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。


CVN-76
2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、彼の健康状態はさらに不安定になった。
空母「ロナルド・レーガン」 [編集]
1998年2月6日に、ワシントンD.C.のナショナル空港が、「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」と改名された。さらに、ニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日に「ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。2003年7月12日の就役式典には、闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー夫人が出席した。
死去 [編集]



国葬でワシントンD.C.内を運ばれる棺


葬儀に参列した中曽根、ゴルバチョフ、マルルーニ、サッチャー(左から)
歴代2番目の長寿 [編集]
2004年6月5日の午後1時9分に、レーガンはロサンゼルス近郊の高級住宅街、ベル・エアー (Bel Air) の自宅で肺炎のため死去した。
レーガンは妻ナンシーおよび子供マイケル、パティ・デイビスおよびロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて生涯を終えた。93歳と120日。歴代アメリカ大統領の中で最長寿だった(現在は2006年12月26日に93歳165日で死去したフォード元大統領につぐ2位)。
葬儀 [編集]
レーガンの葬儀は、リンドン・ジョンソン元大統領以来の国葬として、2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬ではジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、マーガレット・サッチャー元イギリス首相、ブライアン・マルルーニー元カナダ首相らが弔辞を述べた。
また、レーガンと親交の深かった中曽根康弘元日本首相やミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領ら、現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。
当日の夕方、日没の時刻にカリフォルニア州シミバレーのロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。
逸話 [編集]

リーガン → レーガン [編集]
「Reagan」の英語本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選のあたりまでは「ロナルド・リーガン」と言っていた。ところが共和党から党大統領候補の指名を受けると、レーガンのルーツはアイルランド系で、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レーガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつてなかったため、この件は意外性をもって報道された。しかし多民族国家アメリカでは民族の伝統の継承や自己の歴史への誇りなどが尊ばれることから[14]、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の増加につながった。
もう一つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン (Donald Regan) である。リーガンはレーガンの側近のような存在で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけ[15]というこの二つの名前はいかにも紛らわしいので、アメリカの報道は渡りに船とばかりに、こぞってレーガン候補の方を「レーガン」とし、リーガン顧問以下その他大勢は従来通りの「リーガン」に据え置くことにした[16]。
日本では、大統領選を経て就任式を過ぎてからしばらくしても「リーガン」と「レーガン」が混在していた。春頃になるとアメリカ大使館から日本の報道機関に対して、適切な表記への変更を要望する書簡が送付されている。外国大使館からのこうした要望は前代未聞で、この件は日本でもちょっとしたニュースになった。
バック・トゥ・ハリウッド [編集]


左からレーガン、ナンシー夫人、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』製作総指揮のスティーヴン・スピルバーグ
レーガンのお気に入りの映画は1985年公開の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、ホワイトハウス内の専用上映室で何度も見たという[17]。この映画には、タイムマシンで30年前の1955年に戻った主人公マーティが、そこでこのタイムマシンを作った科学者ドク・ブラウンの若かりし頃と対面、自分が未来から来たことを告げる。そんなことは全く信じないドクが「そうか、じゃあ1985年には誰が大統領になってるんだ?」と聞くと、マーティは「ロナルド・レーガンだ」と答えるが、ドクは呆れて「ロナルド・レーガン?(二流)役者のか? なら副大統領は誰だ?(コメディアンの)ジェリー・ルイスか?」とこれを笑うシーンがある[18]。
1986年2月4日の一般教書演説で、レーガンは逆にこの映画から別のセリフを引用、「映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも言っていたように、我々の行き先には道が敷かれている必要はないのです[19]」という一節を挿入して、議場の喝采を浴びている。
爆撃は5分後に始まります [編集]
レーガンの茶目っ気と洗練されたジョークはアメリカを魅了したが、軽口が災いして、ひとつ間違えば外交問題に発展するか、下手をすれば全面核戦争にもなりかねないような状況を作ってしまったこともあった。
1984年8月8日、定例ラジオ演説の本番前のマイクロフォンテストで、常套句[20]を言うかわりに、 「国民の皆さま、喜ばしいご報告があります。私はただいまソ連を永遠に葬り去る法案に署名しました。爆撃は5分後に始まります[21]」 と言ってみたのである。ただの音量テストのはずだったので好きなことを言ってみただけのことだが、だれが何を間違えたのかそのときマイクはオンエア状態で、まるで宣戦布告のようなこの「メッセージ」は全米のみならず、短波放送を通じて世界中の人々に聞かれてしまった。
当時は「力による平和」戦略でソ連に対しては強硬な外交路線を敷いていた真っただ中だっただけに、これを聞いて青ざめる者も多かったという[22]。
なお、当時のソ連指導者コンスタンティン・チェルネンコは、報復として「ただ今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」というニセの軍事電文を発信している。
注 [編集]
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【2011/01/10 17:50 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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