忍者ブログ
  • 2025.03
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2025.05
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/04/25 03:28 】 |
タンク・パットン
タンク・パットン(Tank Patton)のリングネームで知られるダグラス・グッドウィン・マクミッチェン(Douglas Goodwin McMichen 、1946年3月23日 - 1998年12月31日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カンザス州出身[1]。生年は1949年ともされる[1]。
鉄兜を被ったコンバット・スタイルの巨漢ヒールとして、NWAの各テリトリーで活躍した。日本での主戦場だった全日本プロレスでは、覆面レスラーのブラック・テラー(Black Terror)に変身したこともある。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

学生時代はアメリカンフットボールで活躍し、スコット・ケーシーのスカウトでプロレス界にデビュー[1]。1974年にテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)にてダグ・パットンの名前で活動後[2]、ジョージ・パットンの率いたアメリカ戦車部隊にあやかったタンク・パットンをリングネームに[1]、ザ・ファンクスが主宰していたテキサス州アマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区に登場。
1976年8月、全日本プロレスの『ブラックパワー・シリーズ』に初来日。シリーズのエース格ボボ・ブラジルのパートナーに起用され、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。このシリーズでは、同じく初来日のテッド・デビアスと組んでグレート小鹿&大熊元司のアジア・タッグ王座にも挑んでいる。
1977年はロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングにて、チャボ・ゲレロ、ザ・ハングマン、ロディ・パイパー、キース・フランクスらと抗争。1978年には地元のカンザスを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、ジェシー・ベンチュラとのコンビで9月14日にロン・スター&トム・アンドリュースからNWA世界タッグ王座を奪取している[3]。
この間、全日本プロレスには1977年8月の再来日を経て、1978年3月に覆面レスラーのブラック・テラーに変身して『チャンピオン・カーニバル』の第6回大会に出場。開幕戦の入場式においてアブドーラ・ザ・ブッチャーに喧嘩を売り、同日に行われたブッチャーとの公式リーグ戦では両者リングアウトの引き分けに持ち込むなど、「リーグ戦荒らし」としての活躍を見せた[4]。ブラック・テラー名義では1980年5月にも全日本に参戦し、ザ・デストロイヤーとの覆面レスラー同士の対立アングルも組まれた(同時期、ダブルブッキングで国際プロレスへの参加も予定されていた)。
1981年にはテキサス州サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)を襲撃、4月24日にタイガー・コンウェイ・ジュニアを破り、同団体認定のブラスナックル王座の初代チャンピオンとなった[5]。以降もSCWを主戦場に、ブルーザー・ブロディ、ワフー・マクダニエル、ケン・パテラ、ボビー・ダンカンらと激闘を展開した。
1998年12月31日、癌のため死去[2]。52歳没。
得意技 [編集]

エルボー・ドロップ
バックブリーカー
アバランシュ・ホールド
獲得タイトル [編集]

NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):1回(w / ジェシー・ベンチュラ)[3]
NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回[6]
SCWブラスナックル王座:2回[5]
 etc.
PR
【2011/01/06 19:57 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
トミー・リッチ
トミー・リッチ(Tommy Rich)のリングネームで知られるトーマス・リチャードソン(Thomas Richardson、1956年7月26日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州ヘンダーソンビル出身。ニックネームは "Wildfire"(野生の炎)。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

1974年、ジェリー・ジャレットにスカウトされ、地元のテネシー地区でプロレスラーとしてデビュー。以降1980年代を通し、テネシー地区(CWA)、ジョージア地区(GCW)、アラバマ地区(SECW)など、NWAの南部テリトリーを中心に活動。ジョージア地区ではオースチン・アイドル、マスクド・スーパースター、オレイ・アンダーソン、イワン・コロフ、バズ・ソイヤー、ファビュラス・フリーバーズなどトップクラスのヒールと流血の抗争を繰り広げ、ベビーフェイスとして一時代を築いた。
1981年4月27日、ジョージア州オーガスタでハーリー・レイスを破り第59代NWA世界ヘビー級王者となる。その4日後にはマリエッタでレイスにタイトルを奪還されたが、この記録はジャイアント馬場をしのぐNWA世界王座史上の最短命記録であり、史上最年少での王座戴冠記録でもあった。マイケル・ヘイズがテレビ番組『WWE 24/7』で語ったところによると、この王座移動はNWAまたはレイスの許可なく、プロモーターの指示でレフェリーが早くカウントを取り勝利させたものだという[1]。
1983年、全日本プロレスに初来日。その後も度々来日し、ジャンボ鶴田と名勝負を残した(リッチも鶴田もフライング・ボディシザース・ドロップを得意にしていた)。また、アメリカにおけるスタン・ハンセンの盟友として、プロレス専門誌の海外情報コーナーにもよく登場した。1980年代後半には古巣のCWAに復帰し、旧敵オースチン・アイドルと組んでジェリー・ローラーと抗争した(この抗争劇は、業界紙『レスリング・オブザーバー』において1987年の "Feud of the Year" に選ばれている)。
1991年からWCWへも参戦し、1993年にはUSWA、1995年にはジム・コルネットのSMWで活動。この頃になると体重も増加し、ラリー・シャープを思わせる風貌・体型になり、かつての金髪アイドルのイメージを完全に払拭してヒールに転向した。1996年よりECWに登場し、ザ・ビッグ・ドン(The Big Don)のニックネームでイタリア系ユニットF.B.I.のマネージャーとしても活動[2] [3]。
2000年にECWを離れプロレス界から引退したが、2006年よりインディー団体への単発出場を開始。かつてのライバル達との因縁の対決も再現しており、2007年5月15日にジョージアのAll-Star Championship Wrestlingにてマスクド・スーパースター、同年8月5日にクリーブランドのAll-Pro Wrestlingにてジミー・スヌーカと対戦した。2008年6月7日には、アトランタで行われた "NWA 60th Anniversary Show" にてアブドーラ・ザ・ブッチャーとノーコンテストの激闘を演じている[4]。2009年8月9日にはECWの影響下にあるJCWが主催した "Bloodymania" に登場、サブゥー対レイヴェン戦においてレイヴェンのマネージャーを務めた。
得意技 [編集]

フライング・ボディシザース・ドロップ
ダイビング・フィスト・ドロップ
スリーパー・ホールド
獲得タイトル [編集]

GCW
NWA世界ヘビー級王座:1回
NWAジョージア・ヘビー級王座:3回
NWAジョージア・タッグ王座:6回(w / トニー・アトラス、スタン・ハンセン×2、サンダーボルト・パターソン、ワフー・マクダニエル、クラッシャー・リソワスキー)
NWAジョージアTV王座:1回
NWAメイコン・ヘビー級王座:1回
NWAナショナル・ヘビー級王座:3回
NWAミッドアメリカ / CWA
NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
NWA南部ヘビー級王座(メンフィス版):2回
NWA USタッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / トージョー・ヤマモト)
NWA6人タッグ王座:2回(w / トージョー・ヤマモト&ジョージ・グラス)
AWA南部ヘビー級王座:2回
AWA南部タッグ王座:4回(w / ビル・ダンディー×2、エディ・ギルバート、ダッチ・マンテル)
CWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
CWA世界タッグ王座:2回(w / ビル・ダンディー、ジェリー・ローラー)
SECW
NWAサウスイースト・コンチネンタル・ヘビー級王座:1回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:3回(w / ビル・ダンディー、ジョニー・リッチ、スティーブ・アームストロング)
WCW
WCW世界6人タッグ王座:2回(w / リッキー・モートン&ジャンクヤード・ドッグ、リチャード・モートン&テレンス・テイラー)
USWA
USWAヘビー級王座:4回
USWA世界タッグ王座:4回(w / ダグ・ギルバート)
その他
SMWヘビー級王座:1回
AWFタッグ王座:1回(w / グレッグ・バレンタイン)
脚注 [編集]

^ GCWプロモーターのジム・バーネットは同性愛者を公言しており、トミー・リッチはバーネットと寝て王者になったという噂が今も残っている。それほど、彼の王座移動は議論の的になっている。
^ リッチ自身はイタリア系ではないが、F.B.I.はプロレスにおける民族ギミックのパロディ的な側面を持っていたこともあり(黒人のメンバーもいた)、イタリア系の出自を自称して「ビッグ・ドン」を名乗った。また、架空の6人タッグ王座をでっち上げ、当時は1990年代後半であったにもかかわらず「先月はフリーバーズ、今月はエリック兄弟の挑戦を受けた」などと時空を超えた戦歴を吹聴した。
^ “Full Blooded Italians”. Online World of Wrestling. 2010年3月16日閲覧。
^ “Tommy Rich returns to Atlanta for fan fest”. SLAM! Wrestling. 2010年3月11日閲覧。
【2011/01/05 02:03 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
トニー・ガレア
トニー・ガレア(Tony Garea、1946年9月20日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の元プロレスラー、現WWEロード・エージェント。本名はアンソニー・ガルシア(Anthony Garcia)。
現役選手時代は正統派の二枚目ベビーフェイスとして、ニューヨークのWWWF / WWFを主戦場に活躍した。リングネームは日本では「トニー・ガレア」の表記が慣例的であり、本項でもそれに倣うが、正しくは「トニー・ガリア」と発音する。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

クロアチア移民の2世 "Anthony Gareljich" としてニュージーランドのオークランドに生まれる。学生時代はラグビーの選手として活躍。1971年にニュージーランドでデビュー後、1972年にアメリカに渡り、ニューヨークのWWWFと契約、ベビーフェイスのハンサム・ガイとして売り出された。
1973年5月30日には巨漢ヘイスタック・カルホーンのパートナーに起用され、プロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取。9月11日にタナカ&フジに奪回されるが、11月14日に日系人ベビーフェイスのディーン・ホーとの新コンビで王座に返り咲いた。その後も、1978年11月21日にラリー・ズビスコと組んでユーコン・ランバージャックス(ピエール&エリック)、1980年11月8日にリック・マーテルと組んでワイルド・サモアンズ、1981年7月21日にもマーテルとのコンビでザ・ムーンドッグスを破り、同タイトルを通算5回に渡って獲得した[1]。
この間、西海岸のNWAサンフランシスコ地区にも参戦し、1976年5月15日にパット・パターソンとのチームでドン・ムラコ&インベーダー1号から同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取している[2]。また、1978年と1979年の2年連続で、新日本プロレスのMSGシリーズに来日。78年の第1回大会では予選トーナメントで失格したが(2回戦でバグジー・マグローに敗退)、79年の第2回大会では決勝リーグに進出し、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも対戦した。
1982年にマーテルがWWFを離れてからはエディ・ギルバートやブライアン・ブレアーら若手とコンビを組み、主にミッドカードに出場。以降はベテランのジョバーとして、ヒールのニューカマーの引き立て役を務めた。1984年にWWFの全米侵攻が始まってからはロード・エージェントを担当するようになり、以降1986年の引退から現在まで、WWEのバックステージで活躍している。
番組内のスキットに出演することは滅多になく裏方に専念しているが、アティテュード期の1990年代末、ゴールドバーグのパロディ・キャラクターとして登場したギルバーグの入場シーンにおいて、彼の控え室をノックして出番を告げる役を常に担当していた(この行為もゴールドバーグの入場シーンのパロディである)。
2007年6月24日のヴェンジャンスでは、かつてのタッグパートナーのリック・マーテルと共に、デュース・アンド・ドミノに攻撃されるジミー・スヌーカとサージェント・スローターを救出[3]。2008年6月11日のWWEのオークランド公演では、同じくニュージーランド出身であるザ・ブッシュワッカーズのブッチ・ミラーと共にMVPのトーク・コーナー "VIPラウンジ" に登場、ヒールのホスト役MVPを蹴散らして喝采を浴びた。
2010年3月29日のRAWでは、クリスチャン対テッド・デビアス・ジュニアのランバージャック・マッチにおいて、ニック・ボックウィンクル、"ザ・ミリオンダラー・マン" テッド・デビアス、IRS、ロディ・パイパー、リッキー・スティムボート、ジェリー・ローラーらと共に、レジェンドの1人としてランバージャック役を務めた[4]。
得意技 [編集]

ドロップキック
エルボー・スマッシュ
オクトパス・ホールド
アブドミナル・ストレッチ
獲得タイトル [編集]

WWWF世界タッグ王座 / WWFタッグ王座:5回(w / ヘイスタック・カルホーン、ディーン・ホー、ラリー・ズビスコ、リック・マーテル×2) [1]
NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / パット・パターソン) [2]
脚注 [編集]

^ a b “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月5日閲覧。
^ a b “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年9月1日閲覧。
^ “Catching up with Rick Martel”. WWE.com: November 19, 2008. 2010年4月21日閲覧。
^ “WWE RAW March 29, 2010”. Online World of Wrestling. 2010年4月25日閲覧。
関連項目 [編集]

ビンス・マクマホン・シニア
ビンス・マクマホン
ゴリラ・モンスーン
チーフ・ジェイ・ストロンボー
パット・パターソン
ジェリー・ブリスコ
ジャック・ランザ
【2011/01/05 02:02 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
テリー・テイラー
テリー・テイラー(Terry Taylor)のリングネームで知られるポール・W・テイラー3世(Paul W. Taylor III、1955年8月12日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。サウスカロライナ州グリーンビル出身。
ブッカーとしての才能をビンス・マクマホンやダスティ・ローデスに認められ、現役引退後の1995年からはクリエイティブ・スタッフの立場でWWEとWCWを股にかけて活動、マンデー・ナイト・ウォーズが激化していた両団体のバックステージで辣腕を振るった。
近年はTNAにてタレント・リレーション部門の取締役を務めている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

エディ・グラハムにスカウトされ、1979年にNWAフロリダ地区のFCWにてデビュー[1]。以降、中西部のNWAセントラル・ステーツ、アラバマのSECW、テネシーのCWA、ジョージアのGCWなどを転戦し、各地のローカル・タイトルを獲得。1981年6月7日にはレス・ソントンを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座にも載冠している[2][3]。
1983年頃よりビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAに定着。金髪の二枚目ベビーフェイスとして女性の人気を集め、1984年6月にはクラッシャー・クルスチェフからミッドサウスTV王座を[4]、1985年3月にはテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取した[5]。1986年にMSWAが団体名をUWFと改称してからも、主力フェイスとしてデビアスやバズ・ソイヤーらと抗争。1987年2月7日に行われたUWF世界タッグ王座決定トーナメントにはクリス・アダムスと組んで出場し、決勝で若手時代のスティング&リック・スタイナーを破りチャンピオン・チームとなった[6]。UWFがNWAのジム・クロケット・プロモーションズに買収されると、1987年11月26日の『スターケード』にてニキタ・コロフとUWFとNWAの両TV王座統一戦を行い[7][8]、この試合に敗れたことを機にNWAを離脱。
その後、テキサス州ダラスのWCCWを経て、1988年にデビアスの仲介でWWF(現・WWE)へ移籍する。ミッドサウス時代と同様にベビーフェイスの "スケアリー" テリー・テイラー("Scary" Terry Taylor)として登場したが、同年下期よりレッド・ルースター(The Red Rooster)を名乗ってヒールに転向。ボビー・ヒーナン率いるヒーナン・ファミリーの一員となり、11月24日の『サバイバー・シリーズ』ではハルク・ホーガン&ランディ・サベージのチームと対戦した。翌1989年1月7日の『サタデー・ナイト・メイン・イベント』でヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻るが、ミッドカードのポジションからオーバーすることはできず、1990年の初頭にWWFを退団。
WWF離脱後の1990年7月、全日本プロレスに初来日。同年下期よりWCWに参戦し、ヒールとして女性マネージャーのアレキサンドラ・ヨーク率いるヨーク・ファウンデーションに加入する。1992年2月17日にはグレッグ・バレンタインとのコンビでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュ(マット・ボーン)からWCW USタッグ王座を奪取した[9]。同年8月には新日本プロレスの『G1クライマックス』に来日し、NWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している。
帰国後の1992年9月、"テリフィック" テリー・テイラー("Terrific" Terry Taylor)の名でWWFに復帰。ヒールのカラー・コメンテーターも兼任したが、翌1993年8月にWCWに戻り、ベビーフェイスの中堅として1994年まで在籍。その後、シカゴのAWFを経て、1995年に現役を引退してブッカーとしてWCWに復帰。エリック・ビショフやケビン・サリバンらと共に、『マンデー・ナイトロ』のシナリオ作成を担当した。
以降、ブッカーやライターなどクリエイティブ・スタッフとしてWCWとWWFを行き来し、ライバル関係にあった両団体の番組構成(WCWの『マンデー・ナイトロ』とWWFの『ロウ・イズ・ウォー』)に横断的に携わるようになる。1998年から1999年にかけてはアティテュード路線最盛期のWWFに所属していたが、2000年よりシナリオ・ライターのビンス・ルッソーらと共にWCWに復職。2001年3月のWCW崩壊後はカナダ・オンタリオ州のBorder City Wrestlingに参画した。
2002年9月より『スマックダウン』のロード・エージェントとしてWWEに迎えられたものの、翌2003年7月に解雇。以降はTNAを中心に活動している。2004年1月にはIWAジャパンに来日した。
得意技 [編集]

コック・オブ・ザ・ウォーク(Cock of the Walk)
ルースター・ウイング(Rooster Wing)
フライング・フォアアーム
サンセット・フリップ
獲得タイトル [編集]

SECW
NWAサウスイースタンTV王座:1回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
GCW
NWAナショナルTV王座:1回
セントラル・ステーツ
NWAセントラル・ステーツTV王座:1回
NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ・ボブ・ブラウン)
CWA
AWA南部ヘビー級王座:3回
AWA南部タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)
CWAインターナショナル・ヘビー級王座:2回
CWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:1回
MSWA / UWF
ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
ミッドサウスTV王座:2回
UWF世界タッグ王座:2回(w / ジム・ドゥガン、クリス・アダムス)
UWF世界TV王座:2回
WCCW
WCWAテキサス・ヘビー級王座:1回
WCWA世界タッグ王座:1回(w / アイスマン・キング・パーソンズ)
WCW
WCW世界6人タッグ王座:1回(w / トーマス・リッチ&リチャード・モートン)
WCW USタッグ王座:1回(w / グレッグ・バレンタイン)
その他
NWA世界ジュニアヘビー級王座:1回
BCWカンナム・タッグ王座:1回(w / サイラス)
【2011/01/05 02:02 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
マイケル・マナ
マイケル・マナ(Michael Manna、1971年10月9日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。スティービー・リチャーズ(Stevie Richards)のリングネームで知られる。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 その他
5 外部リンク
来歴 [編集]

1991年にアメリカ東部のインディー団体にてデビュー後、1993年にECWへ参戦。1995年からはレイヴェンの子分として活躍する。1996年にnWoのパロディ集団bWoを結成し、自身はケビン・ナッシュのギミックのパロディであるビッグ・スティービー・クール(Big Stevie Cool)を演じた。1997年、レイヴェンに続いてWCWへ移籍したが、WCWでの活躍は振るわずすぐにECWへ復帰。1998年にはIWAジャパンに初来日した。
1999年にWWF(現・WWE)へ移籍。当初はbWo時代と同様にレスラーの物真似をするコミカルなキャラクターだったが、2000年よりリングネームをスティーブン・リチャーズ(Steven Richards)に変更し、WWFの風紀検閲活動を行うユニットRTCを結成。ブル・ブキャナン、ザ・グッドファーザー、バル・ビーナス、アイボリーらをメンバーに、ヒールの主力ユニットとして活動した。
2001年のWWF対WCW・ECW連合軍(アライアンス)の抗争アングルではアライアンス側に所属。クロニック(ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク)のマネージャーを担当した。
アライアンスのストーリー終結後はハードコアマッチ戦線での活動を経て、2002年末よりビクトリアとのコンビでサイコ系のキャラクターに変身。2003年下期からはRAWの前座番組であるヒートを主戦場とし、スティービー・ナイト・ヒート(Stevie Night Heat)を名乗った。RAW出演の際は主にジョバーとして登場し、クリス・マスターズのRAWデビュー戦の相手も務めている。
2005年のWWE ECW's One Night StandにてbWoが再結成されると、スマックダウンに移籍してbWoのリーダーとなり、メキシクールズと抗争。同年7月のグレート・アメリカン・バッシュでメキシクールズに敗れると、再びbWo以前のギミックに戻り、スマックダウンの前座番組ヴェロシティへ活動の場を移していった。
2005年後半からリングに登場する機会が減るが、2006年3月のサタデー・ナイト・メイン・イベントに際してシェイン・マクマホンのスパーリング・パートナーを担当。同年、WWE内の第3ブランドとしてECWが復活すると、リングネームをスティービー・リチャーズに戻して移籍した。
2007年はケビン・ソーンとミニ抗争を展開。2008年にはECW第100回目の放送でゲスト解説にも入ったが、8月にWWEを解雇された。その後はTNAでドクター・スティービー・リチャーズ(Dr. Stevie Richards)として活動。2010年7月より、ミック・フォーリー、ロブ・ヴァン・ダム、レイヴェン、トミー・ドリーマー、ライノ、チーム3D、アル・スノーらとTNA版ECWオリジナルズであるEV 2.0(Extreme, Version 2.0)を結成した。
得意技 [編集]

スティーブン・キック(スーパーキック)
スティービー・T(ダブルアーム式DDT)
ジャックナイフ・パワーボム(bWo時代に使用)
コピー版スウィート・チン・ミュージック(ECW-レイヴェンズ・ネスト時代に使用)
スティービー・ストレッチ
獲得タイトル [編集]

ECW
ECW世界タッグ王座 : 2回(w / レイヴェン)
WWE
WWEハードコア王座 : 21回
NWA
NWAナショナルヘビー級王座 : 1回
NWA世界ライトヘビー級王座 : 1回
NWA2000王座
HWA
HWAヘビー級王座 : 1回
MCW
MCWタッグ王座 : 1回(w / Earl the Pearl)
その他
MEWFヘビー級王座 : 1回
LAWヘビー級王座 : 1回
UCWヘビー級王座 : 1回
SCWタッグ王座 : 2回(w / Frank Stalletto x1、ブルー・ミーニー x1)
PWXタッグ王座 : 1回(w / ブルー・ミーニー)
APWFヘビー級王座 : 1回
その他 [編集]

2003年、リチャーズ宅で行われたパーティーにてクラッシュ・ホーリーが嘔吐物を喉につまらせ死去した。
【2011/01/03 23:20 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
<<前ページ | ホーム | 次ページ>>